HOME

 

書評

稲葉振一郎著『「公共性」論』NTT出版

『図書新聞』2008.6.21, 1.

橋本努

 

 

 現代思想の上質な営みを、カルチャーセンター系のノリで踏破した快著である。その語り口はもはや、一流かつカルチャーな、芸道の域に達しているというべきであろう。つねにゆれうごく現代思想の進行形に身を置きながらも、現代の最重要テーマ群を、読者とのインタラクティヴな観点をもって縦横無尽に掘り下げる。表題に「公共性」とあるが、本書を貫いている関心はむしろ「リベラリズム」であり、「か弱きリベラリズム」とでもいうべきスタンスが、著者のオリジナルな視軸となっている。ここで「か弱さ/ひ弱さ」という価値は、いかにも読者との共感関係を示しており、そこにシャープな対話と思索が紡がれていくのだから面白い。

一般に、思想やイデオロギーを展開する場合、体系的な論理の開陳だとか、あるいは実存的な生き様といった、いずれも「たくましい価値」を想定しがちである。だが、そうした「たくましさ」にそもそもの違和感をもつ著者は、たくましさから免れようとする「ひ弱な生」を肯定する。「ひ弱な生」はいったいどこまで肯定できるのか、という問題が探求されるのだ。

なるほど「ひ弱な生」は、肯定されなければならない。というのも私たちのポスト産業社会においては、「頭でっかちだがひ弱な生」を送る人々が、システムの重要な役職を担うと同時に、成熟した文化を担ってもいるからである。思想信条的には骨がなく、その意味では「全体主義の危険性」に免疫がなくても、テクノロジーや文化産業に通じている多くの人々が活躍している。そうした人々の日常を肯定できなければ、高度に複雑な現代社会を、およそ価値あるものとして認識することはできないだろう、というのが著者の洞察だ。

これは正しい現実認識であろう。思想的なひ弱さと産業社会の高次化は、実は共犯関係にあるのではないか。この豊かな社会に生まれた自己の幸福な生を正当化したいと思えば、私たちは同時に、思想的なひ弱さを肯定しなければならない。ところが現代思想の大家たちは、この根本事実を認識できないでいる、というのが著者の告発である。

 ちまたで流行っている公共性論にしても、あるいは市民論だとか自由論にしても、そこでは「よりすぐれた理念」というものが探求されている。そしてそのすぐれた理念を引きうけることのできない個人は、価値的に劣るとみなされる。

 例えば現代のリベラリストたちは、自由がもたらす「多様な価値の共存状態」というものを称揚する。だが、実際に進行している社会的事態は、「オタク的島宇宙の棲み分け社会」ではないのか。あるいは、マクドナルド化(文化の画一化)であったり、人々の動物化(啓蒙の拒否)であったりするのではないか。リベラリズムの啓蒙は、現実には、動物化したポストモダン人間には届いていない。

そこで著者は次のように考える。そもそもリベラリズムとは、政治思想である前に、私人たちの「処世術」であって、多くの人々にとって処世術として生きられなければ意味がない。ゆえにリベラル社会の青写真は、ひ弱で他力本願的な人間(動物化した人間)たちを肯定するものでなければならない。ひ弱な人間たちは、多様な価値を称揚するのではなく、他人には無関心である。他人から干渉されずに、自分の世界に閉じこもりたい、荷の重い道徳からはできるだけ逃れたい、と思っている。そういった人たちが、「最低限の身の振り方」としてリベラリズムを共有すれば、それで十分ではないかというわけである。

 もちろん著者は、そうした「か弱きリベラリズム」の社会が、たくましきリベラリズムの社会よりも脆弱である(生存可能性が低い)ことを認めている。しかし著者は、人間のひ弱さをできるだけ肯定することで、かえって文化の成熟がもたらされるという逆説に注目する。例えば最近、監視装置などの「環境管理型」の権力が、人間の自律した思考や自治を妨げているのではないかと批判される。いわば安楽への全体主義ではないかと批判され、それと対照的に、システムの外部としての難民に関心が集まっている。しかし人間社会の進歩は、よく管理された全体主義というものを肯定したところに開花するのであって、難民問題にはしかるべき対応を模索するとしても、基本的には「よき全体主義」の可能性を探れ、というのが著者の立論だ。

 テーマパーク化した高度資本主義社会においては、人々の多くは、すでに幸せな生活を送っている。これに対して現代の思想家たちは、社会システムがあまりにもうまくいきすぎると、人間は「存在忘却」に陥るのではないかと警鐘を鳴らす。元来、リベラリズムとは、システムからのエクソダス(逃亡)を選択肢として残す思想であった。しかしエクソダスが不可能な現代のグローバル社会において、リベラリズムの意義とは、一部の人々が存在に覚醒し、このリベラルなシステムを鍛える活動に傾倒することで十分、というわけなのだが、本書は著者の前書『モダンのクールダウン』の続編であり、さらに続編がつづくという。今後の思索の着地点がどこに向かうのか、注目していきたい。